「ミーラインソフィア」-絵本と生命の知識- ブログページ

ミーラインソフィアのブログページです。
心霊学や体験談もとに絵本や言葉で、より楽しく生きる価値観をご提供できればと思います。
子供~学生から、お子さんを持つ大人のみなさんまでお気軽にごらんください(*^^*)

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幸せになるための「自己犠牲」の力

自己犠牲と聞くと、自分がマイナスになることを想像しますが、
実際のところこの世界、この宇宙でマイナスになることは存在しません。


なぜならば、与えた者は与えられる、という神様が作った因果の法則があるからです。


そして、この自己犠牲とは、すべての物事を幸せに導くためのカギなのです。



たとえば身近なところで考えれば、私たちは常にグループを形成して暮らしています。
この地球だけでもまず人間という種があり、各国家があり、
私たちでいえば日本で暮らしており、各地域があって、各々にグループがあります。


最小単位では家族というグループがありますし、仮に家族がおらずとも
人は独りでは生きていけないので誰かしらとは関わって生きているはずです。
そうしたグループが存在する以上、嫌でも何かと関わっていないといけません。


ついつい忘れがちになるのですが、幸せとは常に誰かとの関わりの中にあるものです。
自分独りだけで得る成功は存在しません。
たとえ達成感だけを味わうのが目的でも、誰もいない世界でやっても味気ないもの。
本当に独りきりで誰からも見られなければ、それは絶対に楽しいものではないでしょう。


幸せとは、他者との間に生まれる絆、共鳴する調和の中にあります。


そのグループ内が笑顔で安心できる空気に包まれているだけで
思った以上の満足感と充足感を得るものなのです。


人間の幸せは常に調和とセットになっている


これを忘れないようにしましょう。



ということは、自分が幸せになるためにはグループをより良くしなくてはいけませんし、
すべての人間にはグループに対する責任が生じます。
それが嫌でたまらなくて、好き好んでやっているわけではないグループであっても
所属しているからにはそこに対する責任があるわけです。


多くの人、おそらくすべての人間は幸せや充足感を求めています。
にもかかわらず、グループに対して無関心であれば、
結局のところ自分が求めるものは手に入らないということになるのです。


いやいや先生、違うグループに行ったら楽しかったよ、というみなさん。


それは、違う誰かがグループ内で自己犠牲をしているからこそ成り立っているものです。


調和を保つために相手を気遣ったり、グループ内が楽しくなるように努力しているからです。
その人だって、疲れているときはあるでしょうし、忙しいときもあるでしょう。
その中でも周りの調和のために自分を犠牲にしているから、
そこに加わった人がそう感じているにすぎません。


つまりは、誰かのおかげで幸せを与えられている状態です。


これ自体は悪いことではありません。
しかし、誰か一人にだけそれを任せていては、何かあったときに崩れてしまいます。
そうなれば、みなさんはまたそれを捨てて違うグループに行くのでしょう。


いつまでそれを繰り返すのですか?


という話になってしまいます。


それ自体が、自分自身を卑しめることにつながってしまいます。
簡単にいえば「あの人は薄情な人だ」「あの人は駄目だな」という烙印を押されているのに、それにまったく気がつかない本当に駄目な人になってしまうわけです。


義務を怠っているからです。
すべての人には、そのグループに対して奉仕できるだけの能力が備わっています。
それを使わないから、調和の原理を知らないからいつまでも苦しむことになります。



また同時に、みなさんが信頼できる人を見分ける一つの要素になります。


自己犠牲ができない人は、自己犠牲に対しての感受性が乏しい


のです。


誰かが自己犠牲をしていても、それに反応しないわけです。
これは霊の能力がその段階まで至っていないという単純なレベルのお話でもありますが、
そうした習慣がついていないので気がつかないことも多いのです。
誰かに与えられることに慣れすぎて、ありがたみを忘れている状態ともいえます。


子供の教育で一番大切なことが、このグループの維持と自己犠牲の精神だと思います。
なにせこれがないと社会が成り立たないので、誰もが幸せになるには必須の要素だからです。
霊の能力に関わることは簡単には身につきませんが、子供の頃に教え込むことで
やるとやらないとでは大きな違いを生み出すことになります。


といっても、先生のように強要されるのが嫌という子供もいます。
強要されなければ自発的にやる、という子もいるので、それは子供の特性や性格を見て慎重に行わねばなりません。
が、すべては扱いようなので、子供が楽しめるように教えることで、
この二つの要素を幼い頃から身につけさせることができるようになるでしょう。


みなさんが信頼を得たいと思うのならば、何事に対しても自己犠牲の姿勢で挑みつつ、
さらにいえば、自己犠牲に対する感受性の高い人を周囲に集めるのがよいでしょう。
小さければ小さいほど、これは効果的です。


一番の理想は、最小単位の家族や友人のグループでこれが常時できていることです。
それだけで日々楽しい人生が送れることでしょう。


自分の才能を磨く楽しさ

ついつい私たちは、「~があればこれができるのに」という思考に陥りがちです。
しかも一度この思考に憑りつかれると他のことが考えられなくなり、

「~がないから努力しないでいい」という最悪の思考が忍び寄ってきます。


これが一番恐ろしいところです。
しかし、よくよく考えてみると、道具ってあまり重要でないことに気がつくでしょう。


たとえば、先生は昔から絵や創作に関わって生きていますので、
子供のころに「誕生日に何か欲しいものがある?」と親から聞かれても
「僕が欲しいものはお金では買えないんだ」と言ってきました。
(もちろん、違うプレゼントはもらいましたよ!)


だって、絵が上手くなるには自分が努力するしかないわけです。
誰かを雇って良いものを作ることは可能でも、自分が上手くなるわけではありません。
あくまで自分がやらないと嫌なのですから、自分が努力するしかありません。


すると結局、銀行口座に百億円あっても、十万円しかなくても、毎日やることは変わらない、のです。


ならば、べつに必要ない、という結論に達します。


これに気がつくと、人生がとても楽になりますし、羨ましく思わなくなります。
どうせお金があっても絵が上手くなるわけじゃないしな、と思えるからです。
どこを重視するかで人生はまったく変化するわけです。



また、最近流行りのDIY(何でも自分でやる)で、
工夫次第で案外高級品の代用もできちゃったりします。

もちろん限界はありますが、所詮道具は道具にすぎません。
人間の才能、創造力に比べれば微々たるもの。


そして、道具がないからこそ能力を磨けるのです。


便利な道具は人間の潜在能力を抑えてしまいます。
今の人間が霊的能力を使えなくなっているのがその証拠。
本来ならば動物とテレパシーぐらい普通にできてもおかしくはないのです。
しかし、物的な道具が進化してしまったがゆえに、怠惰でいてもかまわなくなりました。
それでは能力は向上しません。


貧困や欠乏の中でこそ私たちは力を磨けます。


むしろ、そうした状況が欲しいから、わざわざ不便な世界に生まれてきているのです。


もし将来の仕事にどうしてもその道具が必要であっても、
本当に必要ならば背後霊がなんとかしてくれます。


神が本当に必要なものを与えなかったことは一度もありません。


もしみなさんがそれを否定するのならば、
すでに与えられたものの価値を知らないからです。

それを工夫するチャンス、それによって才能を磨くチャンスが必ず与えられています。
そして、将来の目標があるのならば、今やれることをしっかりやることで
その道具を手に入れたときに本当の価値を引き出せるようになるのです。


さあ、才能を磨きましょう。
努力ほど面白いことはありませんよ!
毎日夢中になって悪戦苦闘するから人生は面白いのですから!



思想の責任

人間は行動だけではなく、自分の考えや思想にも責任を取らねばなりません。
なぜかというと、実は私たちが考えたことは見えない領域で実体化しているからです。


一般的にエーテル層と呼ばれる領域で考えたことが実体化しています。
このエーテル層というのは非常にあやふやな表現ですが、
地上と接している幽界の下層部との境界だと思えばよいでしょうか。


たとえば、何かするときでもイメージしますよね。
ご飯が食べたいな、旅行に行きたいな、こんな絵が描きたいなとか。
それらのイメージは思念によってこのエーテル層に実体化するわけです。


絵なんてまさにその象徴ですよね。
自分の中の理想像があって、それに物的に少しでも近づける作業が絵です。
頭の中では出来ているのに手元の技術がないので描けなくて
やきもきすることもよくあることです。


ただ、弱いイメージや、継続性のない考えはすぐに消えてしまいます。
実際に固定化されるほどのイメージや創造力となれば
それこそ強い願望、強い思念の力が必要となります。


たとえば、この地球(物質)もイメージによって作られています。
我々から見て神にも等しいような神霊の創造力(イメージ力)は想像を絶するので、
実際の物質も思念によって生み出すことができるわけです。
我々人間程度ではそこまではいかないけど実体化はする、という話です。



さて、私たちが考えていることが集まってできたものを「思想」と呼びます。

この思想、毎日考えているのでとても強いイメージ力があります。
それがどんな思想でも、毎日強烈な願望を抱いていると実体化するわけです。
たとえば宗教のように、何十年も何百年もその考えを抱いていると
それらが実体化するような事態になります。


たまに大仏や仏が見えるというのは、このイメージの産物です。
誰かが考えたものが見えたり、あるいは凝り固まった思想が実体化したもの、という場合もあります。
特定の思念には力を得たものもありますので、私たちが日々考えること、
特に思想についての責任は重要であると考えられますね。


先日、新聞を読んでいて、あまりに社会に染まりきった考えを掲載している記者がいました。


当人は正しいと思っているのでしょう。
しかし、視点を変えるといかに身勝手な意見かがわかります。


先生が新聞をあまり信じないほうがいい、というのは、こういうことを言っています。
新聞は(外的な)事実を伝えることには優れていますが、
基本的には表面的な現象にしか目を向けないので、どうしても思考が単調になります。

ですが、新聞が正しいと思っている人が読んでしまうと、その考えが彼らにも伝播して影響を与えます。

よく投書欄でまるで自分の考えのように新聞に書いてること丸出しの投稿をする人がいますが、
こういう人はすでに自分の考えを失っていて、相手の言葉を繰り返すオウム状態になっているのです。


先生の父親がこのオウムです。
話をしても、新聞やニュースで言っていることを自分の考えのように話し、
酷い場合は先生が今言ったことを、直後に自分の考えのように繰り返します。
これは危うい状況なので、みなさんは気をつけてください。


というよりは、あまり思考力や知能の高くない霊にありがちな症状ですから、
どうしても防げない一面はあると思います。
こういうタイプの霊は、他人の思想に影響されやすいのが特徴です。


ここでようやくタイトルの言葉に戻ります。


自分の思想を出すということは、こうした未成熟な霊に大きな影響を与えます。


自分がやったことが自分に戻るのが因果律なので、
相手に影響を与えたら、その責任も負わねばならないのです。
先生も、出した作品の影響を受けた人に苦しめられたことがあります。
そのときは「これが因果か」と改めて怖くなったものです。


この悪影響の一番わかりやすいものが洗脳です。
選民思想、愛国主義、こうしたものがどれだけ悪影響を及ぼすかは
今の国際状況を見ても簡単にわかるものです。


この場合、思想の発端となった人は死後どうなるか。


自分が悪影響を与えた人全員が解放されるまで面倒をみなくてはならなくなります。


それまで進化できないような仕組みになっているのです。
これは相当に厳しい状況です。


霊訓では、特に宗教関係にスポットが当てられています。
自分であまりよくない思想だとわかっていて教えを広めた人が、
後悔して苦しみながら一人ひとり解放して回っている姿が取り上げられています。


先生もみなさんも、誰かに何かを伝えるときは気をつけねばなりません。
少なくともそれが正しいと思うことだけ伝えるようにしましょう。