人間は病気や怪我をすると、それを治そうとします。
それは当然の行動ですが、それだけに目を奪われて、
なぜそうなったのかを考える余裕がないこともよくあります。
病院に行けば治る、医者に任せておけばいい、薬を飲めばいい。
こういった考えに囚われると、せっかくの病気に意味がなくなります。
病気とは、当人が持っている何かしらの未熟性が顕現したものです。
通常、人間の肉体は、精神的、霊的に正しければ正常であるといわれます。
これは簡単な事実でして、たとえば怪我をするのは何かしら性格に問題があるからです。
慌しい性格で不注意ばかりしていれば転びますし、怪我をします。
心の静寂を知らず、未来に不安を感じていれば、精神的に病んで肉体も衰えます。
あるいは、目先のことに囚われて体を壊しやすい職業を選ぶかもしれません。
霊的な罪があれば、カルマが病気として顕現します。
このように、何事も病気には理由があります。
肉体は霊体からエネルギーを補給することで成り立っている道具です。
心の世界の体である霊体は、心の状態の影響を強く受けます。
肉体はチャクラを通じて各臓器とつながっていますので、
ある特定の不安や恐怖などといった悪感情を抱くと、それに対応した臓器が病み、
そこがガンになったりもします。
さて、こうして病気になったとき一番重要なのが、
なぜそうなったのか、その原因を見つけ出し改善すること
です。
人間の病気とは、すべてそのために存在します。
先生も昨年、二週間くらい動けなくなったときがありましたが、
「ああ、こんなに慌しく体を酷使すれば当然だ」と思いました。
しばらく瞑想もままならない日々が続いていたので、かなり強く反省したものです。
そして、それがまた一つの転機になりました。
神様が病気を用意したのは、そこから学ぶためです。
神が作ったこの世界は、つまるところ自然は常に正常であろうとします。
それに逆らえば病気になるわけで、ではなぜそうなったのかを見極められます。
これは普段から起こる何かしらの問題と同じことです。
日常生活、社会活動において問題が起これば、それを改善しようとします。
その過程で叡智を学ぶようにという配慮の一つでもあるわけです。
まあ、実際のところは、人間の無知によって問題が起こって、
それを四苦八苦して克服していく過程で自然法則の成り立ちを発見する、ということです。
病気になると人間は慌てますが、これも内容は同じで、
病気は治ることが大切ではない
のです。
そこから自分の未熟性を学ぶことができれば、治らずともさして問題ではありません。
むしろ、何の努力もせずに薬や手術でごまかして、同じ生活を続けるほうが問題です。
そこで何が悪かったのか、物的な行動から精神的な考え方まで学べなければ意味がありません。
これは心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)でも散々言われていることです。
その感動が琴線に触れて、魂が目を覚まさなければ治療は失敗である、と。
もちろん、健康であることが一番には違いありません。
しかし、治すことばかりに目がいけば、肝心の魂の成長が成し遂げられません。
むしろ痛みを思い出すことで自制(自省)する手段にすることもできます。
病気になることはかわいそうなことではないのです。
そこを理解しないといけません。
その裏側にある原因に目を向けると、人生の意味が少しずつわかるようになります。