すべての鍵は受け入れることにあります。
たとえば何かが起こって苛立つ、恐がる、感情が乱れる。
それはすべて自分が選んだ結果、起こることなのです。
究極的なことを言ってしまえば、
外で起こることはすべて自分の外側で起きていることであり、
それが何であろうと自分が反応しなければ意味を成さないのです。
たとえば、ここでもまた先生の母親に登場していただきましょう。
彼女は日々年老いていく自分に苛立っています。
足が動かないだけならばともかく、若い頃のように走り回れないことに苛立ったり、
いつまでも若い頃と自分を比べています。
あるいは他人と自分を比べて劣等感を感じたりしています。
もし彼女が受け入れることを悟る段階にまで達すれば、
何が起きようと動じることもなくなるでしょう。
お金がなくても、今生活できていることに感謝できるようになります。
他人と比べなければ、比べたとしても自分の良い場所がたくさん見えるようになります。
それは再三言っているように反応的にならない、ということです。
この段階に至るまでには長い修養が必要です。
これは人生を生きて、喜怒哀楽を経験した結果、
それが何であるかを知っているので動じなくなるということです。
これを若い学生のみなさんがやるのは難しいことです。
すべては魂の成長度合いの問題なので、
肉体と魂の年齢はまったく関係なく、悟りを開いている人ならば
学生だってそのレベルにいる人は当然いるでしょう。
そう、ここも重要です。
同じ経験をしたからといって、同じ結果になるとは限らないのです。
各魂のレベルもそうですが、その霊の性質によって受け止め方は変わります。
それが最高の刺激になる人もいれば、恐怖の刺激になる人もいます。
正直、先生より厳しい状況にある人はたくさんいるのに、
まだまだ反応的で強い欲求を抱く人たちがいます。
それは彼らにはそうした激しい体験が必要だということです。
その強い刺激によって魂が目覚めるまでは、しばらくそうしたことが続きます。
ともあれ、受け入れることを学ぶと人生はとても楽しくなります。
みなさんが嫌な問題に直面した時でも、それを楽しめるようになるのです。
ゲームに熱中している時に買い物を頼まれても、
努力して受験した学校に落ちたときも、
上手くいっているときも最低のときも、
その瞬間を楽しめるようになります。
みなさんが苛立つのは、そうありたい自分があるからです。
それ以外が目に映らないのは、そうした欲求があるからです。
それはそれで悪いことではありませんが、
浮ついたものに囚われていると感情を大きく乱すことになります。
今起こっていることを素直に受け入れる。
むしろ楽しむ。
これができるようになれば、もう恐いものはありません。
事故に遭って重い障害を負っても、それはひとときのものだと知ります。
この地上はあくまで体験を集める場所。
大切な場所ですが、霊の体験全体から見れば些細な一瞬でもあります。
受けた痛みには必ず意味がある。
そして、耐え抜いた最後には必ず報われる。
これこそが神の絶対なる正義の証です。
受け入れる力は、いかなる時も自分を守る盾となるでしょう。