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犯罪の背後にある悪い霊団の仕組み

これもまた改めて述べると思いますが、
ここではしばしば守護霊さんの話を出しています。


守護霊さんとは、私たちが地上で活動する際、その面倒をみてくれる人です。


当然一人ではなく、支配霊さんや指導霊さん、それ以外の背後霊さんを含めて何人かいます。
背後霊の中で一番霊格が高い人を守護霊さんと呼んでいます。
また、関わりがより深い場合、その霊が同じルーツを持っている場合もあります。


背後霊さんは、べつにずっとこちらを見ているわけではありません。
彼らは彼らなりに霊界の別の世界(霊界は無限の世界がある)で
自分たちの仕事や成長のための経験を積んでいます。


でも、地上の人間とは違って視野が広いので、同時にこちらの様子を知ることもできます。
何か大きなことがあればすぐにわかりますし、基本的には事前に察知できます。


一つ例を出せば、背後霊でもなんでもない霊でさえ、火災が起こる場合は七日前にわかっているといった具合です。

古武士霊は語る―実録・幽顕問答より
古武士霊は語る―実録・幽顕問答より
潮文社

たしかこれに書いてありましたね。
しばらく読んでないので、若干うろ覚えですが。


背後霊団は、基本的には六人~といった程度らしいのですが、関わる仕事の質や大きさによって、そのつど人数は変わります。
たとえば、動物愛護やら人権保護などの仕事をしていると、それには何百人、何千人と麗人さんが援助してくれることもあります。
これは仕事の場合に援助してくれる霊なので、一般的に背後霊と呼ばれる人たちとは別に考えることが多いです。




先生の拙い説明では問題が多すぎるので、インペレーター先輩に話を聞きましょう。


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引用 スピリチュアリズム普及会「霊訓」



――背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。


背後霊は必ずしも指導する目的のみで付くのではない。そういう場合が一番多いのではあるが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともある。が、その場合でも人間を教え導くという傾向は自然に出てくる。また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともある。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもある。反対に霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当なる人間を選ぶという場合もある。これは高級なる霊が好む手段である。己の霊的向上のために、敢えて指導が困難で不愉快な思いをさせられる人間に付くことを自ら希望する霊もいる。その人間と苦労を共にしつつ向上していくのである。中には霊的親和力によって結ばれる場合もある。地上的縁の名残りで結ばれることもある。何ら特殊な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するに従い背後霊が入れ替わることがしばしばある。
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さて本題。


私たちの思考の七割方は、自分のものではないといわれています。


2章の15でも少し述べましたが、私たちの肉体は霊の道具です。
霊というのは私たちの本当の意識であり、普段は表に出てこない意識です。
普段は肉体的な意識によって阻害されているので、
考えることは主に肉体的な欲求ばかりになっている場合もあります。


自分の欲求を制御するのが大切なのは、
肉体を統御して霊の意識を少しでも表に出すためなのです。


割合の問題として、肉体がおとなしくなれば霊の側の意識の割合が増える、ということですね。



どうしてこうなっているかといえば、
地上にいる霊のほぼ全員は未熟な霊なので、
まだ物質の扱い方を知りません。


まずは自分の肉体を制御するという修練をここで積んでいるのです。


霊は、潜在的に物質を制御する力があります。
たとえば、心霊現象で物を動かす場合、簡単なものならば練習なしで誰でもできます。
実際に動かした霊人さんに聞いてみると、自分の中に包む感じで簡単にできたと言います。


このように本能的に霊には物質を制御する力が宿っているのです。


その原理を使って肉体を自分の思い通りに動かしているわけです。


が、私たちは未成熟なので、自分単体では簡単にそれができません。
そのために各人に守護霊団が存在し、常々指導してくれています。
それは主に精神、魂に対して働きかけるもので、


ちょっと言葉は乱暴ですが思考を操ってこちらの動きを制御しています。


簡単な例で言いますと、みなさんが何かの仕事をやろうとする場合、
何かしらの資料を探しますよね。
では、どこを探すのか。まずは見つけないといけませんね。
そうした場合、背後霊さんたちは信号(波動)を発してこちらの思考に干渉して、
「ここにこれがある」というメッセージを送ります。
その信号を受けて、(その条件にある人は)「あっ、もしかしたら」と気がつくわけです。


これは生活全般にいえることです。
そう考えると人生は面白いと思いませんか?
先生は大学に行くつもりはなかったのですが、結局行くことになりました。
ですが、そこで色々な出会いがあって、もし大学に行かなければ今の能力は身につかなかったと常々思います。
出会いがないので、そうした能力を身につけるきっかけがなかったことになるからです。


このように、人間にはそれぞれ背後霊が存在して、人生に大きな影響を与えています。
ただし、その条件にある人、と限定したのには理由があります。
神の法則は文字通り法則なので、条件を満たしていないと発動しません。
その条件の一つに、守護霊団との磁気的関わりというものがあります。
磁石にたとえて、どれくらい磁力が強いかで与える影響力も異なる、というわけです。


この影響力が決まる条件にはいろいろあります。
まずは当人の霊のレベル。これが高ければ必然的に感情の制御ができるので、
肉体の統御もできやすくなって霊団も干渉しやすくなります。


また、こうして霊団の存在を知っていることも重要な要素です。


「背後霊がいて援助してくれる」ことを知っているだけで天と地ほども違います。
まったく家から出ず、隣に誰がいるのかもわからないで地域とのかかわりがない人と、
近所の人と仲が良くお金や食べ物を気軽にもらっている人くらい違います。



「おいボウズ、何万パワー欲しいんだ」
「じゅ、十万円ほどです!」
「たったの十万でいいのか、欲のないやつだ。ほら、持っていけ」
「あざーっす!」


※実話


というくらい違います。
実話なのがまたリアルです。


つい先日も先生の知り合いが、こんな感じで二十万+電化製品をもらっていました。
ほんと、これくらい違います。




話は戻って


もしまだ寿命でないのに死ぬ場合、これが影響していることが多いです。
守護霊さんが「そこは危ない」と言っているのに、
普段からの結びつきが弱いため声が聴こえず、危険な場所に行ってしまう。
それが原因で死ぬ場合もあります。
これは守護霊さんが悪いのではなく、その人自身のレベルが低いことが要因です。


よく事件や事故が起こると「本当はそこに行く予定だったのに、少し時間を遅らせて助かった」という話を聞いたことがありませんか?
これがまさにその事例。背後霊の警告を聴いて助かった事例です。
当人は「なんとなく」とか「忘れ物をしたから」と言いますが、
それは単に背後で起こっていることを知らないにすぎません。


よく「神様は助けてくれない」と言う人がいますが、
それは神様が作った法則の条件を整えていない、ということなのです。


なぜ条件があるかといえば、私たちには自由意志があるからです。
それこそが人間が操り人形ではない証拠です。




さて、ここでようやくさらに本題です。


今まで話した原理は、実は悪いことにも適用されます。
これらは法則なので、悪い人が使えば悪い結果を出すこともできるのです。
包丁だって善良な人間が使えば料理の道具ですが、
悪い人が使えば他人を刺すこともできます。


思考の七割は自分のものではない、と言った意味がここに出ます。
実際に私たち当人のものと言える思考はほぼ三割で、


残りの七割が背後霊からの良い影響力と、
そこら中に電波のように漂っているさまざまな思念と、
意図的に悪い影響を与えようとしている低級霊団のものがあります。


これを見分ける方法は簡単で


愛と正義と慈悲に関わるものが背後霊団からの意識であり


攻撃的な悪い考えに関わるものが低級霊団からの意識です



これを改めて考えるとかなり怖い状況です。
私たちは常に二つの勢力から影響を受けており、
ちょっとした隙に悪い力に囚われる可能性があります。


悪いほうに囚われると、毎日悪い考えが浮かんでしまって
最終的に犯罪に走ることになります。


これを逆に考えると


犯罪者のほぼすべてが低級霊団(いわゆる悪霊)の影響で犯罪を犯している


ということなのです。


まず犯罪が起きたときに、私たちはこの可能性を常に考えねばなりません。
「ああ、悪い影響力に負けてしまったか」と考えることが重要です。


なぜこうしたシステムになっているかといえば、
それはすべて霊の進化のためです。


霊の進化とは、常に二つの選択肢の中での葛藤によって得られます。
強烈な欲求と、それに抵抗する理性との戦いです。


もっと白黒はっきり言えば、善と悪の戦いです。
これが絶えず行われているのが地上の人間というものなのです。
むしろ、これを経験するために私たちは地上に生まれています。
霊界では、こうした二面性は味わえないからです。


ただし、そうした悪い影響力に囚われるのは当人に問題があるからです。


まず最初の条件として、「同じ属性でなければ干渉できない」というものがあります。
これは親和力の法則と呼ばれているもので、似たもの同士がくっつく基本の条件です。
ですので、最初から親和力の強い人がなる守護霊さんとは違い、


悪い影響力は自分から引き寄せなければやってこないものです。


もしやってきても、取っ掛かりがないので近寄れないわけです。



趣味がまったく違うので話しかけられない状態に似ています。


みなさんも爽やかイケメンスポーツマンに、「あ、アニメとか好きかな?」とか言えませんね。
そこで「俺、政治と世界平和しか興味ないから」とか言われたら立ち直れません。


悪いことをしてしまうのは、あくまで当人の問題なのです。
神様はこうしたシステムを作っていますが、自由意志をもっとも大切にしてくれています。


つまりは、最後に決めるのは自分なのです。


我慢することもできるし、欲望に負けて犯罪を犯すこともできます。
その最後の選択肢は必ず当人に与えられています。
ですから、いわゆる「絶対に定められた運命」というものは存在しません。
その行動を行うのは、必ず当人が決めることなのです。
この最後の砦こそ、霊の最高の権利といえるかもしれません。



もう一つ重要なことがあります。
悪い影響力に囚われるのはその人当人の問題ですが、


それを助けるという自由意志を神様は私たちに与えています。


たとえば、カルマ(因果律)によって肉体的にハンデを負った人が生まれます。
では、因果律だからといって苦しむのをただ見ているだけになっては
私たちが一緒に生まれてきた意味がありませんね。


そうした大変な人を助ける自由も同時に与えています。
もっとも簡単な例を出せば、障害を持った人を支える親の存在。
それは生まれる前に霊が知っている場合もあります。
「今度障害を持って生まれる予定だから、面倒を見てもらえますか?」
という具合に。


お互いに仲が良ければ、こうしたことも可能です。
聞いた話によれば、特に結びつきが深い霊は
いくつかの人生において家族の役割をそれぞれこなして成長するようです。
今回の人生では親をやったので、次はあなた(自分の子供)の子供として生まれよう、といった具合でしょうか。


まあ、これも霊の大きな意識の問題もかかわってくるので、あくまで我々がわかりやすいたとえとして考えた場合です。


それとは逆に知らない場合もありますが、善良で慈悲深い人の子供に生まれることによって、お互いに利益を得る場合もあります。
それによってカルマの清算を手助けできるばかりか、自らの中にある神様を表に出せるようになるわけです。



先生も猫が寝たきりになって、毎日徹夜の看護をしたことがあります。
たしかに大変でしたが、それによって大きな成長を得ることができました。


猫一匹でさえこれだけの愛を獲得できるのですから、


私たちが苦しんでいる人たちを助けることは、自分のためにも有意義なことです。




今回の本題は、犯罪の裏側には必ず悪い霊の干渉がある、ということ。
これを知らないと、闇雲に犯罪を犯した人を責めることになります。


この危険性を再びインペレーター先輩に聞いてみましょう


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引用 スピリチュアリズム普及会「霊訓」



〔ひき続いての対話の中で私は再び善と悪との闘いに言及した。それに対して、と言うよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が書かれた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが十年ないし十二年続いて再び一時的な凪(なぎ)が訪れると語った。予言めいたことを述べたのはこれが最初である。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返し語られたことであるが、その時に綴られたまゝを紹介しておく。〕



そなたが耳にせるものは、これよりのちも続く永くかつ厳しい闘いのささやき程度に過ぎぬ。善と悪との闘いは時を隔てて繰り返し起きるものである。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されて来たことを知るであろう。時には未熟なる霊が圧倒的支配を勝ち得た時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が大挙して霊界へ送り込まれるためである。彼らは未だ霊界への備えができておらぬ。しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。死せるのちもなお、その雰囲気の中にて悪のかぎりを尽くす。


霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。そなたらはみずから定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいてあまりに盲目的であり無知である。幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。するとそなたらはすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込める。そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこにたむろし、双方の邪念と怨恨とによって、まさに巣窟と化している。


何たる無分別! 何たる近視眼! 何たる愚行! その巣窟にわれらが入ろうにも到底入ることを得ぬ。神の使者はただ茫然として立ちすくむのみである。そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団(人間と霊の)を目(ま)のあたりにして悲しみの涙を流す。そなたらが犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。何となればそなたら自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、そなたらは知らぬし、知り得ぬことでもあろう。が、もしも人間が右の如き事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。


~略=


引用終わり
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これらすべては試練です。


霊の試練とは、絶体絶命の時、激しい葛藤の中で行われます。


たとえば全財産を失ったとき、愛する人が死んだとき、生きる意味がわからなくて自暴自棄になったとき。


そんなときこそみなさんの意思が試されるのです。


しかし、これを知っていれば、「俺、今試されてる?」とか思って、どんなときでもがんばることができるようになります。