「ミーラインソフィア」-絵本・童話・生命の知識- ブログページ

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グリエル問題について考える

本日の話題は、グリエル問題についてです。
すでに新聞にも載っていたのでみなさんもご存知かと思いますが、
かつて横浜ベイスターズにいたグリエル選手が起こした差別ジェスチャー問題ですね。


先生は横浜ファンなので、彼のことはよく覚えています。
当時からけっこう問題児だったので、
才能はあるけど精神的にはまだまだ若い子なのだなーと思って見ていました。



さて、今回は世論の意見とはまた違った角度で見てみようと思います。



結論として、先生個人としては、もっと罰則を厳しくしたほうが良かったと思います。


これは差別に対してもっと厳しく~という意味ではなく、


グリエル選手を必要以上に責めないためです。



では、今回起こったこと、そのリアクションの結果を見てみましょう。


グリエル選手の行動に対して、
ダルビッシュ選手はそれを指摘した上で比較的寛容的な態度を取りました。
これにまったく異論はありません。
まさにその通りですし、そうすべきでしょう。
ダルビッシュ選手の言動はまさに褒められた模範的な態度です。


がしかし、その結果として何が起こったか。


正論という正義が強く輝きすぎた結果、
メディアはダルビッシュ選手を大々的に称賛し、
グリエル選手の悪がさらに際立ちました。


これによって、ダルビッシュ=正義、グリエル=悪、となったのです。
場合によってはアストロズ=悪、のような態度を取る人もいます。
アンチが動き出すには良い口実だからですね。


ひねくれ者の先生は、これを見た瞬間
「ダルビッシュは上手くやったな」と思ったくらいです。
これによって自分の負けがクローズアップされずに済みますし、
自己を英雄視させることができます。


これは政治家とかが使う高度な心理操作のテクニックなのですが、
個人的には上記の通りお勧めはしません。
当然、ダルビッシュ選手がそういう意図をもって行ったとは思いませんが、
多少感情的になって答えを急ぎすぎた可能性は高いです。


しかも、話の規模が大きいほど、これは効果てきめんとなります。

たとえば先生が大好きな「人類の進化のために」とか「神の正義のために」といったもの。
これは非常に自己を正当化する便利な言葉かつ、非常に危険な言葉でもあります。
この言葉を振りかざして行われた暴力も数知れないからです。


また、罰が比較的軽かったせいもあって世論では彼に対して厳しい論調が多いです。
みなさんもご存知のように、当事者以外の関係ない人のほうが残酷です。
特にネットを介したものは世界的なので執拗に責められることになります。


朝方、「グリエル選手って亡命したんだっけ?」と思ってウィキペディアを検索したら、
さっそく悪意のある記事が載っていました。
それは夕方には消えていましたが、これが現状だということですね。


これを避けるためには、ある程度重い罰を与えるべきでした。
そうなると「あんなに罰を受けたのだから、もういいだろう」とか
「ちょっとかわいそうじゃないか?」という論調にもなります



みなさんに覚えていてほしいのは、



安易な寛容的な態度は、むしろ相手を追い詰める


ということです。


罰をあまり与えない状態で、すぐに許すような行為を取ってしまうと、
相手に反省する時間を与えないことになってしまいますし、
相手はプライドを大きく傷つけられてしまい、逆に反抗的になることがあります。
これは明らかに悪いことをしているのに居直る犯罪者の態度を見れば、
周囲からの必要以上の責めは当人の自尊心を刺激することがわかるでしょう。


たとえば、いじめの問題


今はいじめが放置されているので、そういう意味で問題となっています。
が、これからいじめが改善されるにあたって、気をつけねばならないことがあります。
それが今回の事例から学べます。


いじめた相手が悪いのは誰もが認めるところです。
ただし、それを完全に悪と決めつけてしまい、
助ける側、自らを絶対の正義と主張する。


こうなるとまた違う意味でのいじめが発生することになります。


特に正論というものは完璧すぎるので、相手を追い込むことが多いです。


先生も正論が大好きなので昔はよく失敗しましたが(今でもたまにそうですが)
相手を完膚なきまで叩きのめしてしまうことがあります。


こうなると相手は無抵抗になるので感情的な態度に出るしかありません。
それを見て周りはまた「反省が足りない!」と大勢で責め立てるのです。

それは相手が未熟なのもありますが、必要以上に追い込んだ結果です。


これは知能が高い人間がついついやってしまうものです。


相手がミスをしたのを見て、それを利用して自分を正当化させる。
非常に危険かつ、恐ろしい効果を発揮するやり方です。
ええ、主に先生が使ってきたやり方なので、その凶悪さをよく知っているというわけです。


そして、お互いに与えるダメージの大きさも甚大です。


これで相手が改心したというのを聞いたことがありません。


むしろ相手から恨まれることのほうが多いでしょう。
それは相手の進化を阻害してしまった、ということなのです。
それに対して自己が責任を取らねばなりません。


心霊学では、霊からさまざまな高度な道徳教育を教えられます。


その中の一つに、相手を必要以上に責めないというものもあります。
これは非常に難しいので実践するのは困難ですが、
自分が行う行動とその結果について深く熟考する必要があります。


これが高度であるのは実際に起こった結果を見る必要があるからです。
一見すれば正しいと思えるやり方も、効果が出なくては意味がありません。
これが非常に難しいのです。


みなさんも、「こうしたほうが正義なのだろうけど、それをやったらたぶん相手のためにならない」と考える必要性があります。
自己を英雄視させることなく、相手を必要以上傷つけずに反省させる。

これもまた自己犠牲という美徳なのです。


難しいですね。だから高度なのです。




ただし、これにはもう一つの要素を考えねばなりません。

自分に起こることはすべて良いことと考えると、


グリエル選手にはこちらのほうが反省する機会になる可能性もあります。


罰を重くすれば反省するというわけではないからです。
むしろ、人によっては反省しない場合があります。


たとえば刑務所に犯罪者を入れても、ほとんどが反省しません。


なぜか。


自分は刑務所という最低の場所に入れられて罪を償った。
相手に与えたのと同じくらいの痛みを国から受けた。
だからべつに相手に対して悪いとは思っていない。


という原理なのです。


これは刑事ドラマの「相棒」でも取り上げられたテーマの一つですが、
実際にそういったことが普通にあります。実にリアルですね。


ですから、彼にとっては相手に許されたという屈辱に加え、
(それが癖になっている人間には、たいしたことではないという認識がある)
世間からの執拗な攻撃のほうが効く場合があります。
特に自尊心が強い人間や周りからちやほやされている人の場合は、
普通の罰則ではあまり効かないことが多い
のです。
億万長者が数億円の罰金を科せられても痛くも痒くもないのと同じです。


よく悪いことが起きると「変なやつに出会ってしまった」と思います。
もし理性のある人だったらなんてことないのに、あえてそういう人にあたる。


それはまさに神の配剤というもので、自己の悪癖を直すためにそうした人間とあたるように因果律が働いているのです。


なので、起こることはすべて良いことである。


という原理が成り立つのです。

もし起こらなければ、反省する機会を得られないことになってしまいます。
そうなれば霊の進化が遅れるからです。


みなさんも何かの悪を見つけた場合、それに対する対処を勉強することになります。
どれが正解かは対応する人それぞれで違うので、ぜひいろいろな経験をしてくださいね。