「ミーラインソフィア」-絵本・童話・生命の知識- ブログページ

ミーラインソフィアのブログページです。
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絵本「かみさま どーこだ?」(無料絵本)完成

絵本「かみさま どーこだ?」が、完成しました。



↓アルファポリス「絵本ひろば」


何か特別なことをしたわけでもなく、いたってシンプルに作ってみました。
塗り方もアロとは違って、アニメ塗りです。


もともとこちらの塗りのほうが専門なので、とても塗りやすかったです。
こうしたシンプルな絵は自分の最大の特徴かもしれません。
細かいことは気にしないので、実におおらかに「まあいいか」精神で
さくさくと作ってみました。
追加や修正があればそのつどやっていく予定です。



それと・・・動画ですね。
動画は横長になるので多少編集が必要なので、
今週中にできるかは微妙なところですけど。


昔youtubeに一回投稿したことはあるのですが、
あのときは限定公開だったので公開するものでは今回が初めてになりそうです。
完全にやり方忘れていますが、まあなんとかなるでしょう。


それ以外はどこかあるのでしょうか?
絵本は完全初心者なので、どこでどうしたらいいのかあまり知りません。
そのうちどこか見つけたら投稿してみますね(*^▽^*)



見返りを求めないコツ

人間ですから、何かと自分がやった行為に見返りを求めるのは自然なことです。
ですが、見返りを求めることは結果を求めることなので、
そればかりに意識が向くと願いが叶えられずに自分が苦しくなります。


これは、もともと魂というのは与えることで満足するようにできているからです。
神が作ったシステムにおいて、常に見返りは与えられています。
ただそれは物的なものや実際の行為というよりは、


心の充足、真実の満足感というもので示されます。


もし私たちが本来の価値観にもとづいて
神が与えた充足という快楽を是とするのならば、
与えるだけでお釣りがくるくらいの満足を感じるでしょう。


が、それができれば苦労はないです。


なにせここは地上世界。未熟な霊魂がやってくる場所。
もしそれが簡単にできていれば最初から来ていません。



ということで、今日は見返りを求めないコツを軽く紹介します。


最終的には自分自身を鍛えることでそうした問題はクリアできますが、
その最初の基準として大切なのは


イエス・ノーをはっきりすること


これに尽きるでしょう。


人間、割り切ることですべてに対してはっきりとした態度を示せます。
ただし、これがまだできない人の場合(けっこう多くの人がそれで悩みますが)


「なんだか相手に悪いから引き受けようか」
「本当はやりたくないけど、断りにくいし・・・」


という優柔不断な考えで引き受け、あるいは与えてしまって
「あんなにしてあげたのに何もない!」というふうになってしまいます。
まあまあ、よくありがちですね。
でも、これはやっぱり見返りを求めていることになるから苦しむのです。


これを解決するには、まず最初の前提として、


自分の中で「これはOK」「これは駄目」という基準をはっきり決めてみましょう。


そうすると、最初から自分の中でOKのものと決めているので、
それに関しては何も見返りを求めないようになります。



先生で例を挙げれば、特に人間関係でいえば


「普段からコミュニケーションが取れる人はOK」


「取れない人はNG」


という区切りを設けています。


人間ならば誰でもそうでしょうが、信頼関係があるかどうかです。
これは人それぞれで価値観が違うでしょうが、
私個人が重視するのはコミュニケーションです。


この前何かの番組でやっていましたが、
「女性は一週間に三日以上会う人に恋愛感情を抱きやすい」
というものがありました。
常時密接な関係にあれば親しくなるのは当然のことでしょう。


これと同じで、普段連絡しても返信がなく、
自分に都合の良い時だけ連絡してくるような人がいれば、
その人と付き合いたいとは思わないものです。


ましてや何かを無理にしてあげようとすれば、


本当はやりたくないので、その反動で見返りを求める考えが生まれてしまいます。



つまりは信頼関係ができていないのです。
状態でいえば「不審」「疎遠」「嫌悪」なので自然なことです。
それを押し隠して自分を美化してしまうと苦しくなるわけです。


先日も先生はこうした人からお願いをされて、即NOと言いました。
昔は仲が良かったですが、だんだんコミュニケーションが取れなくなって
ある時を境に「NG設定」にされてしまった人でした。


「都合のいいときだけ言われてもな・・・」ということで、
当然社交辞令で当たり障り無くですが、即座にNOを言いました。
うん、すっきりしますね。後腐れないです。
これは自分のルールに従ったからなのです。



他にあるルールとしては


「けっして貸さない。貸すくらいならあげる」


「与えたものは忘れる」


というものがあります。


けっこう友達同士で借りパクというものがありますので、
そうしたことを経験してきて、貸すくらいならあげようというルールを作りました。
これはお金に関しても同じです。


貸し借りで気まずい思いになるくらいなら、最初からあげる。
実に簡潔なルールを設けたのです。


そして、与えたものは忘れるという最大のルール。


先生はもともと常に何か新しいことに熱中しているので
過去をあまり覚えていません。
学生時代の同級生なんてもう完全に忘れているくらいです。


それに、嫌々あげたものでなければ見返りを求めないことにも
薄々ながら気がついていたので、これを厳格なルールにしました。
しかもルールにしてそれが当たり前になると
もうあげたことすら完全に忘れていて、


三日前のことでも「え? あげたっけ?」


という状態になります。
下手をすると昨日あげたものすら忘れているくらいです。
もともと物に頓着しない性格なのも幸いしているかもしれませんけど。



もう一つそれ以上に大切なルールがあるとすれば


「無理をしない」


これに付きます。


何事も無理をして良いことはありません。
自分に与えられた範囲で、小さなことをこつこつやればよいのです。
それを自尊心や自意識から過大なことをやろうとするから歪みが生まれます。



以上、見返りを求めないコツは


自分の中でルールを作って、それを基準に即断する。


ということです。


長引けば長引くほど考えてしまって気苦労が増えます。
自己啓発本でも、今やるべきことはすぐに取り掛かることで
心の平静を保てるようになるとあります。


メールが来たらすぐに返信する。
断るときはすぐに断る。
今やるべき作業は、今取り掛かる。


たったこれだけです。


たしかに与えることは美徳です。
敵を愛すること、嫌いな人に尽くすこと、これもすごいことです。
しかし、神というシステムは常に叡智を求めます。


霊訓で言えば「人を愛することと、すべての人にアイラブユーと言うことは違う」
ということです。
こうした微妙な違いを理解できて初めて知恵が叡智になるのです。


だれかれ構わず八方美人でいることは、けっして美徳ではありません。
むしろ自分を偽った当然の結果として苦しみが生まれるのです。




「孤独」から「個々人の内省」の時代へ

よく孤独死という言葉を耳にします。
世間では、それが悪いことだと思っている風潮が見受けられます。
それは孤独というものに対する考え方が多少甘いからです。


人間は社会的な生き物であり、生命は全体で一つです。
それゆえに個人はより大きなつながりを求める習性があります。
これは生物的というより霊そのもの、魂そのものの習性であり、
その習性があるから物的なこの世界でもそうした様相になる、ということです。


しかし、不思議なことに魂は孤独の中で成長します。


全体で一つでありながら、個々人という存在はバラバラであって、
各々が単独で成長していくシステムになっているのです。


逆にいえば、私たちが地上に生まれるのは逆の過程を知るためです。
全体で一つという存在の中から、あえて真逆の方向性である単独の世界、
個々人の魂が個別に内包された世界に来ることで初めて自我が生まれます。


そして、個別に生まれた自我が成長していき、
少しずつ全体との交わり方を学ぶことで全体として連動するようになるのです。
これは実によくできたシステムだと思っています。



さて本題です。


人間は孤独の中で成長していきます。
いかなる魂も独りで試練に立ち向かうことで逞しくなっていくのです。


これを踏まえて現在の社会を考えてみますと、
順調に進化が進んでいることがわかります。
大衆迎合から徐々に個人の世界を重視するようになってきていますし、
文明の進歩によって今やネットで簡単に社会的なやり取りができます。


もちろん、この中にはマイナスの要素があります。
急激な進歩によって人間性が失われることを危惧する論調もあります。
それは一側面だけ見れば当然の見解です。


しかし、魂の進歩という意味で見るならば、これは良い流れなのです。


孤独というのは、自己を高める行為にほかなりません。
孤独死を危惧する人に足りない知識があるとすれば、


魂とは個々人による内省(ないせい)の世界によって進歩する、ということです。


たとえば瞑想や祈りによる心の静寂。
それによる精神の落ち着き、自己ヒーリングによる健康維持、
霊との交わり(指導)が得られます。
結果的にストレスは減り、他者に優しくなり、社会は上手く回るようになるのです。


私たちは何かあれば、考え、悩み、解決策を見いだします。
それによって経験と知恵を得て、次はより良い行動に出ることができます。
実に当たり前ですが、内省型の世界というのは、そうした行動をより多く取ることです。
毎日自己分析、自己反省をして、進化するチャンスが多くなることを意味します。


また、オムツをトイレで流せるようにするなどの話題がちょっと上がっていましたが、
人間という生き物は高い環境適応能力を持っています。
これは非常に強い力で、三日もいれば過酷な環境に適応しようとしますし、
三ヶ月すれば身体の仕組みが変わり始め、三年もすればすっかり馴染んでしまいます。


これと同じように、弱い環境に身を置くと、そこに適応してしまって
人間はどんどん弱くなっていくのです。
それこそ過剰な消毒による免疫の低下、皮膚の弱さ、足腰の弱さ、
こうしたものは弱い環境に身を置くからそうなっていくのです。


多くのマイナス面は、人間の精神的な側面によって引き起こされます。
歳を取って足が弱まるのは、若い頃に酷使したか、老後鍛錬を怠るからです。
壊れないように管理して使っていれば、事故でもない限りは
人間の身体はある程度正常を維持します。(当然、老衰はあります)


それを邪魔するのが「恐怖」や「不安」「無知(無秩序)」です。
老後が心配だからと働きすぎたり、精神を過剰に追い詰めたり、
無理をすれば壊れるのは当然のことです。


オムツの問題にしても、邪魔だからと施設に入れられて
無理やりはかされることで身体的、精神的に弱ってそうなってしまう場合があります。


これはもう、病気といっても差し支えないほど物の考え方が病んでいるのです。



孤独であること、単独で生活することは悪いことではありません。


問題は、自分が孤独であるという認識のほうです。


成熟した魂にとって孤独はとても静かで心落ち着く空間です。
仏教徒が多くいるアジアの地域では、徳を積むことを最重視していますが、
そこでは子供でさえ「独りのときが一番落ち着いて好きだ」と言っています。


これは幼い頃から瞑想や座禅などを日常的にやっているので、
精神の落ち着きが一番心地よいことを知っているのです。


これをもっとも証明するのが睡眠です。
慌しい社会では寝ることがもったいないように思えますが、
実際の睡眠は霊的にとても大切な行為です。


私たちが睡眠中、霊体(魂)は霊的に活動を始めています。
そこで一旦霊的な環境に戻って英気を養っています。
睡眠は大事でありながらも、精神が磨り減る社会では重要視されません。
されど、十分な睡眠を取ったあとの満足感、充足感を否定する人はいないでしょう。



静寂の中で個人が自分を見つめ直す行為が日常的にある社会。それによって個人が霊的、精神的(あるいは肉体的)に強く逞しくなり、それが社会に還元される社会が今訪れようとしています。


ですので、そもそも孤独というものは良いものなのです。
何事もまず自分がしっかりしなければ周りを良くできないのです。
より精神的に成熟する社会が今生まれようとしている、ということです。


ただし、そのやり方はそれぞれです。
日本の場合、今までの反動が強すぎてこういう形態をとっていますが、
他国や他の地域ではまったく見た目が違いながら、
同じ効果を発揮する形態が生まれています。


大切なことは中身を見ることです。
その意味を探ってみることです。
中身を吟味すれば、すべてが進化していることがわかります。


その中でマイナス面も時間が経つにつれて改善していきます。
各々が役割をもって改善にあたっているからです。