「ミーラインソフィア」-絵本・童話・生命の知識- ブログページ

ミーラインソフィアのブログページです。
心霊学や体験談もとに絵本や言葉で、より楽しく生きる価値観をご提供できればと思います。
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親切の経験値

今日のことを思い出して反省してみて、ちょっと悔しく思いましたね。


これは明らかに親切の経験値が足りなかったから起こった現象です。


親切の経験値とは、言葉通りに親切の熟練度です。
普段から多くの親切を施して対応に慣れていれば
あらゆる場面でも余裕をもって対処できます。
まあ、何にでも通じる簡単な理屈ですね。


普段から道を訊かれれば(近ければ)一緒に行ったり
席を譲ったり、重そうな荷物や車椅子を持ち上げたりと
みなさんが普段やっている親切は体験しています。


今回に関しては電車という時間的制限があったことと、
なおかつ私もちょっと大きな用事でそこに向かっていたため、
その中で適切な親切を行うための余裕を保てませんでした。
その意味において私は未熟であったと思うわけです。


私はどちらかというと理論や考え方、思想のほうを重要視して、
まずその体系を作り上げることに熱中します。
それから実践をして修正していくのですが、
思えば実生活の奉仕や親切に関しては、まだそこまで多くの体験をしていないかもしれません。


そのせいか、最近は外に出るとかなりの確率で
そうした場面に遭遇する気がします。
明らかに年々増加傾向にあります。


それはつまるところ、自分がそうした意識でいるからでしょう。


親切をしたい、何かしら貢献したい、弱者を守りたい、
そうした思いを抱いていれば、常にそうしたことに目を向けるので
所々にある問題に気がつけるということです。


たとえば、霊的真理に関して意識を向けている人は、
何事も霊の視点で考えようとします。
一方、物的なことに執着していれば、物的な観点からしか物が見られません。


もっと言ってしまえば、歯が黒ずんで悩んでいる人は
すべての人の歯が気になってしまって注視してしまう、ということです。


そして、神という存在は、実のところその人の願いをけっこう叶えてくれています。
相応しい力、知識のある人には、その人が望む貢献をさせてくれます。


特に世の中のためになること、人の役に立ちたいと願う欲求に対して、神が何もしないことはありえません。



母親が杖を持ったら、色々な人が親切にしてくれるようになったと言いました。


本当は誰もが誰かに親切にしたいのです。


ただ、多くの人は親切をしたいのだけれど、
本当にその人に必要かどうかわからず尻込みしてしまっているにすぎません。
そこに杖というシンボル、はっきりとしたマークが出ているので
気兼ねなく親切にできるようになったのです。


近年、社会形態や技術の発達によって、人と人の距離が開きやすくなっています。


これは他人との接触下手(べた)とでもいうべき状況です。


本当はそうしたいけれど、やり方がわからない、怖くてできない、
普段からやっていないので触れにくい、という現象です。


席を譲ったら断られて気分が悪くなった、というのも
親切の経験値不足による未熟性です。
これが慣れた人なら、すっと受け流すことができます。


日本が成長する過程で、一部の接触が衰退してきました。
これからはそうしたものを少し回復する時期がきているのかもしれません。


多くの人が街角の小さな親切を日常的にこなし、それを誇りに思い、親切の経験値を高め、さらに高度に発展していきます。


世の中は確実に再生の流れの中にあることは間違いないでしょう。



と、話を膨らませすぎましたね。


ちょっとした花の美を見て、宇宙の偉大さを語るのと同じことです。


だが、それがいい。


私も、もっと貢献できるように日々自己鍛錬を欠かさないようにしたいものです。
もちろん、霊的真理に関して、微々たるものですが力になりたいとは思います。


改めて言っておきますが、霊的知識を持っているからといって優れてはいません。
高度な知能を悪用する人間もいるのです。それは道具にすぎません。


それより、霊的知識は知らずとも、いつも誰かに親切を施すような人がいれば、その人のほうがはるかに立派だといえます。






善意の間違い

電車で移動中、「この電車、〇〇〇に行きます?」と訊かれて、
各駅だったので、「ああ、止まると思いますよ」と言いました。
その後に改めて考えたら、そこは色々と路線が変わる駅で
違う急行電車に乗らねば行けない場所でした。


ああ、やってしまった・・・


ものすごく申し訳ない気持ちで一杯になりました。
できれば早く気が付くか、誰かが教えてくれることを祈るばかりです。



さて、こうした善意による間違いというもの往々にしてあるものです。


たとえば、心霊学の基本は、こうした伝聞形式によって成り立っています。
実際に死んだ人から、「あの世ってどんなところ? どんな仕組み?」
と訊いて、その情報を統合して構築していくわけです。


その過程で「あの人はこう言っていたけど、あの人は違うことを言っていた」
ということがよくあります。
普通の人が意図的に相手を騙すことはしないので、
こうした場合も今回と同じく善意による間違いとなります。


単純に勘違い、あるいはそう思い込んでいる、という状況です。


いざ自分で体験してみて、「ああ、こういうことか」と納得しました。
私自身は単純にその路線の駅だと思い込んでいました。
地元ですが、普段下りは乗らないので、勘違いしたままになっていたのです。
仮にその体験がなければ、ずっとそう思い込んでいたと思います。


これは両者にとって重要なことです。
相手は、まず自分で情報を確認して、仮に相手がそう言ったとしても
それが本当かどうか考えねばなりません。
まあ、道を訊いて、それが間違っていることは少ないかもしれませんが、
そういうこともあるかもしれません。


また、やってしまった当人は、そこで知識の修正が行えます。
思えば、仮に私が霊媒を通して伝える立場であった場合、
「あの時はああ言ったけど、あれって大丈夫かな?」と
指導霊に訊いてみたら違っていた、ということもありえます。


同じ人間社会でもこうなのですから、物質界と霊界という次元が違う世界では
けっこう起こってしまう現象です。


「それは伝えている霊が未熟なのです」


「支配霊は優秀です。が、その下にいる者が未熟なのです」


とか言われるパターンですね。


・・・申し訳ないです!



さて、ついでにもう一つ。


こうしたミスを引きずる人もけっこういますが、


先生は


相手に判断を委ねた以上、失敗も当然自分の責任である


と考えます。


いわゆる


部下の責任は上司の責任


というやつです。


なので、反省はしますが、すぐに記憶から排除します。
常時忙しいですから、無駄な容量を使う必要はありません。


心霊学を学んでから、自分自身への責任というものを常に感じています。
相手に頼むときも、すべて自分の責任なのです。
その人を選んだこと、その人に自分の人生を委ねたこと、
今日、そのルートを選んだこと、そのすべてが自分の判断と責任の中にあります。


もちろん、この中には因果律という強烈な絶対のルールが存在しますから、
守護霊などの導きによって動かされる場合はあります。


それでもすべては自分で選ぶのだという認識が必要です。


こうした経験を積んでいくことで、常に自分で確認することを学びます。
仮に私が逆の立場ならば、「こういう場合は、一般人より駅員に訊いたほうがよい」
ということを学ぶでしょう。
あるいはもっと計画的に、注意深く周囲を観察することを学ぶかもしれません。


これを知ることで、人生を自分で制御できるようになります。
常に自己に還元する癖をつけていきましょう。


仮に詐欺でも、彼らは騙されやすそうな人間を探しています。
低級霊もまた、自分が組しやすい弱い相手を探しています。
騙せそうにない人間を見れば諦め、強い人間を見れば逃げていきます。
自分という個を強くすることで、マイナスの力を跳ね除けることができるのです。





「納得」と「受け入れる」の大きな違い

私の父親の趣味は、古銭(コイン)集めでして、
けっこう昔の記念硬貨などを所有しています。
で、もしかしたら売るかもしれないので、暇があるから磨きたいとのことで
金属磨き液を買ってあげたわけですが、


どうやら色々と納得できないことがあるようです。


普通の硬貨を磨くと普通に綺麗になるのに、
記念硬貨を磨くと銀が剥がれると言います。
そんなことはないと見てみたら、普通に綺麗になっています。
しかし、当人には汚れたままのほうが綺麗に見えるようで、
「この薬品はおかしい。納得できない」と言います。


まあ、言っていることは「苔が生えた石のほうが風情がある」的なものなのですが、私としてはここでふと思ったことがあります。


事実や真実とは、納得することではないのです。


たとえば霊的真理にしても、起こった現象から事実と真実を問い詰めていきます。
その際、べつに納得する必要はないのです。
むしろ世の中で納得できるものなど非常に少ないとは思いませんか?
自分が今地上にいることすら、その効用は理解しても納得しているわけじゃない。
今の生活に嫌気がさしていることも、べつに納得しているわけじゃないです。


が、それは受け入れるべきものです。


変わらない事実なのだから受け入れるしかない。


ということですね。


日差しが心地よいからと浴び続ければ火傷をします。
でも、それに納得できなくても火傷はしますから、対処するしかありません。
現象に対して文句を言っても何も変わりません。


それは納得するものではなく、事実だから仕方のないことです。
そうした理解力が乏しいと、新しい事実が起こっても受け入れることができません。
それは損ですし、正直無駄な時間です。


納得するということは、自分がそれが良いと思うことです。
もしすべてに納得したいと思う人は、自分で小説を書いて楽しむことです。
そこは自分の世界ですから、すべてを神のように自分で決められます。


ただ、現実の自分は、神が創った世界の中にいるので、
神が決めた法則には従うしかないのです。
それすなわち原因と結果の法則。起こった事象に対する冷静な観察眼です。


結局は、受け入れるしかないことなのでしょう。
そのうえで変えられることは変えればいいですし、
自分が良いと思うように工夫すればよいことです。