「ミーラインソフィア」-絵本・童話・生命の知識- ブログページ

ミーラインソフィアのブログページです。
心霊学や体験談もとに絵本や言葉で、より楽しく生きる価値観をご提供できればと思います。
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善意の間違い

電車で移動中、「この電車、〇〇〇に行きます?」と訊かれて、
各駅だったので、「ああ、止まると思いますよ」と言いました。
その後に改めて考えたら、そこは色々と路線が変わる駅で
違う急行電車に乗らねば行けない場所でした。


ああ、やってしまった・・・


ものすごく申し訳ない気持ちで一杯になりました。
できれば早く気が付くか、誰かが教えてくれることを祈るばかりです。



さて、こうした善意による間違いというもの往々にしてあるものです。


たとえば、心霊学の基本は、こうした伝聞形式によって成り立っています。
実際に死んだ人から、「あの世ってどんなところ? どんな仕組み?」
と訊いて、その情報を統合して構築していくわけです。


その過程で「あの人はこう言っていたけど、あの人は違うことを言っていた」
ということがよくあります。
普通の人が意図的に相手を騙すことはしないので、
こうした場合も今回と同じく善意による間違いとなります。


単純に勘違い、あるいはそう思い込んでいる、という状況です。


いざ自分で体験してみて、「ああ、こういうことか」と納得しました。
私自身は単純にその路線の駅だと思い込んでいました。
地元ですが、普段下りは乗らないので、勘違いしたままになっていたのです。
仮にその体験がなければ、ずっとそう思い込んでいたと思います。


これは両者にとって重要なことです。
相手は、まず自分で情報を確認して、仮に相手がそう言ったとしても
それが本当かどうか考えねばなりません。
まあ、道を訊いて、それが間違っていることは少ないかもしれませんが、
そういうこともあるかもしれません。


また、やってしまった当人は、そこで知識の修正が行えます。
思えば、仮に私が霊媒を通して伝える立場であった場合、
「あの時はああ言ったけど、あれって大丈夫かな?」と
指導霊に訊いてみたら違っていた、ということもありえます。


同じ人間社会でもこうなのですから、物質界と霊界という次元が違う世界では
けっこう起こってしまう現象です。


「それは伝えている霊が未熟なのです」


「支配霊は優秀です。が、その下にいる者が未熟なのです」


とか言われるパターンですね。


・・・申し訳ないです!



さて、ついでにもう一つ。


こうしたミスを引きずる人もけっこういますが、


先生は


相手に判断を委ねた以上、失敗も当然自分の責任である


と考えます。


いわゆる


部下の責任は上司の責任


というやつです。


なので、反省はしますが、すぐに記憶から排除します。
常時忙しいですから、無駄な容量を使う必要はありません。


心霊学を学んでから、自分自身への責任というものを常に感じています。
相手に頼むときも、すべて自分の責任なのです。
その人を選んだこと、その人に自分の人生を委ねたこと、
今日、そのルートを選んだこと、そのすべてが自分の判断と責任の中にあります。


もちろん、この中には因果律という強烈な絶対のルールが存在しますから、
守護霊などの導きによって動かされる場合はあります。


それでもすべては自分で選ぶのだという認識が必要です。


こうした経験を積んでいくことで、常に自分で確認することを学びます。
仮に私が逆の立場ならば、「こういう場合は、一般人より駅員に訊いたほうがよい」
ということを学ぶでしょう。
あるいはもっと計画的に、注意深く周囲を観察することを学ぶかもしれません。


これを知ることで、人生を自分で制御できるようになります。
常に自己に還元する癖をつけていきましょう。


仮に詐欺でも、彼らは騙されやすそうな人間を探しています。
低級霊もまた、自分が組しやすい弱い相手を探しています。
騙せそうにない人間を見れば諦め、強い人間を見れば逃げていきます。
自分という個を強くすることで、マイナスの力を跳ね除けることができるのです。








「納得」と「受け入れる」の大きな違い

私の父親の趣味は、古銭(コイン)集めでして、
けっこう昔の記念硬貨などを所有しています。
で、もしかしたら売るかもしれないので、暇があるから磨きたいとのことで
金属磨き液を買ってあげたわけですが、


どうやら色々と納得できないことがあるようです。


普通の硬貨を磨くと普通に綺麗になるのに、
記念硬貨を磨くと銀が剥がれると言います。
そんなことはないと見てみたら、普通に綺麗になっています。
しかし、当人には汚れたままのほうが綺麗に見えるようで、
「この薬品はおかしい。納得できない」と言います。


まあ、言っていることは「苔が生えた石のほうが風情がある」的なものなのですが、私としてはここでふと思ったことがあります。


事実や真実とは、納得することではないのです。


たとえば霊的真理にしても、起こった現象から事実と真実を問い詰めていきます。
その際、べつに納得する必要はないのです。
むしろ世の中で納得できるものなど非常に少ないとは思いませんか?
自分が今地上にいることすら、その効用は理解しても納得しているわけじゃない。
今の生活に嫌気がさしていることも、べつに納得しているわけじゃないです。


が、それは受け入れるべきものです。


変わらない事実なのだから受け入れるしかない。


ということですね。


日差しが心地よいからと浴び続ければ火傷をします。
でも、それに納得できなくても火傷はしますから、対処するしかありません。
現象に対して文句を言っても何も変わりません。


それは納得するものではなく、事実だから仕方のないことです。
そうした理解力が乏しいと、新しい事実が起こっても受け入れることができません。
それは損ですし、正直無駄な時間です。


納得するということは、自分がそれが良いと思うことです。
もしすべてに納得したいと思う人は、自分で小説を書いて楽しむことです。
そこは自分の世界ですから、すべてを神のように自分で決められます。


ただ、現実の自分は、神が創った世界の中にいるので、
神が決めた法則には従うしかないのです。
それすなわち原因と結果の法則。起こった事象に対する冷静な観察眼です。


結局は、受け入れるしかないことなのでしょう。
そのうえで変えられることは変えればいいですし、
自分が良いと思うように工夫すればよいことです。






欲しいものは、要らなくなったら手に入る

あくまでこれは自分の体験談ではあるのですが、
欲しいものって基本的に欲しいときには手に入らず、


べつにあまり欲しくなくなったときに手に入ることが大半です


欲しい欲しいと熱烈に思っているときにはまったく手に入らず、
その後何年もして「もうどうでもいいか」と思っている、というより忘れているときに手に入って「なんで今頃?」と思うこともしばしばです。


もちろん、ちょっとしたお金で買えるようなものならば
好きなときに買える人も大勢いるでしょうし、望んだときに手に入ることもあるでしょう。
ただ、今思い返してみれば、要らないときに手に入ったほうがよいことにも気がつきます。


たとえば、「~したい」というのは当然欲求です。
悪くいえば欲望でもあります。
人間の行動原理は欲求なので、これ自体は悪いものではありません。


が、力を濫用するような人間に与えては世の中が滅茶苦茶になります。
今の世の中を見ても、そうした事例はいくつもあるでしょう。
欲望まみれのときに手に入れば、人間は必ず誘惑に負けます。


ですので、すでに興味がなくなったときに手に入るほうが良いのです。


それは力を正しく扱えるようになった証拠です。


欲望が終わって、冷静になって力を見つめることができます。
なぜこの力を与えられたかを考えれば、正しく使おうと思えるからです。


もし今、何かが欲しくても手に入らず悶えている人がいれば、
こういうことを知ることで希望を持つことができます。
たとえば夢があって、「これをやりたいのに、今はどうしてこんなに駄目なんだ」といった場合でも、


我慢して修練を積んでいけば、いつか与えられるでしょう。


まあ、先生はこれを「皮肉なものだな」と思ってしまうことも多いですけど、
人間の成長というのはそうしたつらさを乗り越えた先にあるものです。


あるいは、望んでいたものより、もっと良いものを与えられます。
自分からすれば望んだものではなくても、神が与えるものはいつだって自分にとって最高のものなのです。



さて、こうなると失敗してしまう人に力が与えられるのはなぜか、という疑問が出てきますね。


これは色々とありますが、一つだけ確かなのが試練の一つということ。
誘惑に負けやすい人がその状況を望むことで、
激しい葛藤の中で試練に直面することになります。


たとえば自殺した人は、もう一度自殺しやすい環境に身を置いて自殺の誘惑に耐える、という願いを申し出ることがあります。
神がそれを許可すれば、まあ、許可したからそういう場所に生まれるわけですが、
そうしてもう一度試練に立ち向かうことになります。


お金や身分に関しても同じです。
次の人生はお金持ちに生まれて人々に奉仕したいと願い出る人もいます。


が、霊である当時はそう思っていても、実際に地上ではその記憶はないので、ついつい誘惑に負けて失敗するといった具合です。


ただ、直感や本能というもので「それは駄目だ。正しくいきなければいけない」というメッセージが常に頭を駆け巡っています。
みなさんも私も、何か悪いことをしようとしたとき、そうした警告が頭に浮かぶでしょう。
あるいは「こんな怠けていては駄目だ。もっとちゃんとしよう!」と思います。


これも生まれる前から決心し、やろうと決めていた仕事(あるいは試練)があるからです。
地上では記憶は失われていても、霊としての感覚では覚えているのです。


そして、失敗した人は死んでから、また死ぬ直前になって
「しまった、失敗したんだ!」と後悔することになります。


・・・恐ろしいですね。


先生が一番恐れているのはこれです。


こうならないように頑張りたいものですが、
人間なので日々自己の未熟さを痛感しています。
なので、失敗した人を責めるような気持ちは皆無です。
むしろ未来の自分のような気がして他人事ではありませんね。


それでもまたチャンスを与えてくれるのが神の慈悲というもの。
それを思うだけで感動してしまいます。
先生が神が偉大だな、と涙を流しそうになるのが、これを思うときです。
何度でもチャンスを与えてくれる。この慈悲の深さに感動します。