「ミーラインソフィア」-絵本・童話・生命の知識- ブログページ

ミーラインソフィアのブログページです。
心霊学や体験談もとに絵本や言葉で、より楽しく生きる価値観をご提供できればと思います。
子供~学生から、お子さんを持つ大人のみなさんまでお気軽にごらんください(*^^*)

〇HPはこちら(制作途上)
http://mirainsophia.net/

自分の中の苦手意識を探してみよう

もしみなさんが、何かをやるときに「嫌だな」と思うのであれば
その原因を探してみるとよいでしょう。


人間は不思議なもので、嫌なものが嫌なのは当たり前ですが、
自分の好きなことでも気が乗らないことがあります。
ではなぜ気が乗らないのか。
それを突き詰めていくと、何かしら思い当たる節があるはずです。


単純作業での飽きかもしれないし、特定の行為が嫌なのかもしれません。
たとえば先生は、昔から「ペン入れ」という作業があまり好きではありません。
ペン入れというのは、描いた絵に清書の線を引くことです。
でも、漫画のようにペン入れされていないものってのはあまりありませんね。
だから仕方なく日常的にやっていたのですが、最近それが億劫に感じてきました。


すると、たった一つの工程が嫌だからといって、そのすべてがやりたくなくなるのです。
これは何事にも当てはまるかもしれませんね。
「誰々と会いたくないから学校に行きたくない」
「英語で当てられるのが嫌だから、今日は行きたくないな」とか。
たったそれだけで全部が嫌になってしまう不思議なものです。


この場合、何もしないでいると、ずっと心が沈んだままで過ごすことになって
それが過ぎ去るまで不安で一杯になってしまいます。
なので、それがわかったら、できるだけ早く決断か行動をするしかありません。


先生の場合は、「やらない」という選択肢を取りました。
これは無理にペン入れをやらず、違う方法で仕上げる、という意味です。
世の中で当たり前にあるからといって、無理に自分もそうしなくていい。
むしろ自分がそうありたいならそうあっていい、というように
みんながやっていても自分はやらない、という決断をしました。
するとあら不思議、今まで面倒に思えたものが楽しくなってきたのです!!


みなさんは、学校に行かないという選択肢はなかなか取れませんね。
もちろん、先生としてはそれも一つの選択肢であって
いじめや大きな問題があるなら、自己主張の一つして問題ないと思います。
みなさんは学生ですから、なかなか大人に対して意見が言えず、
言っても通らないことが多いです。
ならば、本当に危ないときは逃避も一つの手段です。


が、それは緊急の場合。
一番の方法は、もし英語が嫌ならば、英語を学ぶことです。
少なくとも授業の範囲の予習をやっておくと心がすっきりします。
後回しにすればするほど心にのしかかってくるので、早めの行動が重要です。


特定の誰かが嫌い、というのはよくあることです。
これは悪いことではありません。
先生の経験上でも、どんなクラス、どんな職場にあっても
必ず一人は苦手あるいは嫌いな人間ってのがいるものです。
でも、それこそがみなさんが生きている意味なのです。
嫌いなものに接することで見聞を広め、さまざまなことに対処する力を身につける。
これが重要なのです。


ここで言いたいことは、何か面倒とか億劫とか、やりたくないことがあれば、
その原因から逃げるのではなく、向き合うことで心が軽くなる、ということです。
そうして自分の中のストレスにうまく対処することで、
人生が少しでも過ごしやすくなるのではないでしょうか。


情報量の多さで困ること

知識の深みにはまって一番困るのが、
情報が一気に出てきてしまうことです。
一つの事柄から、今まで得てきた膨大な情報が芋づる式に出てきて、
何も知らない人に説明するには明らかに不要な、
高度あるいは難解な情報まで出てきます。


しばらくブログをやっていなかった時期に書いたものも、
何も知らない人には「おとぎ話」として評価されました。
それはそれで楽しんでいただけたようで何よりなのですが、
「なるほど、そう見えるのか」と勉強になったものです。
たしかに現実というのは、神話よりも奇なるものですからね。


それは納得できる反応ですが、これらの現象から、
簡略化するにしても、知らないうちに詰め込もうとして
無駄、あるいはよけいな情報を入れすぎているのでは?
だからもう、現実とは完全に離れたように思えるのでは?
と考えるようになりました。


情報量が多いということは、それだけさまざまな文献を漁った証拠。
探究心と努力は素晴らしいとは思いますが、
それによって知識の海に呑まれている可能性があります。


こうしたことは山に篭っていた代償かなと思います。
これを思うと各分野の専門家の人の気持ちもわかるというもの。
私の専門はもともと創作の分野ではありますが、
たしかに技術論となると説明することも専門的になりがちです。
少なくとも完全なる素人には訳が分からない話になるでしょう。
(同じ絵描きさんと話すと、会話は実にスムーズではあるのですが)


これはマニア同士の会話と同じですね。
お互いに専門的な知識があるから、そこで盛り上がれる。
まあ、主義主張の違いで揉めるかもしれませんが、
少なくとも相手の言っていることは理解できるわけです。
が、素人が聞くと「何の話かすらもわからない」となります。


マニアならば、それで優越感を感じるのでよいのでしょうが、
さて、こうして伝えることが目的となると厄介な問題となります。
その意味でも、復習を兼ねて初歩の初歩を勉強するのは素晴らしいことです。
何事も基本が重要ですから、何度やっても損にはなりません。

ただ、全体的な復習は一年半前くらいからやっていますが、
今度はシンプルがゆえに難解という事態に陥ります。
たった一言にどれだけの意味が込められているかを知っているからです。
さらに、先生が知らない意味が込められているかもしれません。


「これは本当はどういう意味なのだろう?」
「ここの文言、言い方が気になる」
と、それを考えるだけで、動きが止まってしまうこともしばしばあります。
今度はそれに関連して、地上の出来事、文化や社会のことまで浮かんできて、
関連を考えるだけで時間だけが過ぎていく状態になるのです。


師は弟子に合わせて法を説く、という言葉があります。
これは特に霊的なことに関しては必須の要素でして、
相手に理解できるものに変換する能力を指します。
まあ、これゆえに勘違いが生まれるので、宗教が誤解されやすいものになったり、
弟子が勝手に改竄したりという事態になり、
よりややこしいことになるわけですが、やはり重要な能力です。
伝わらなくては意味がありませんからね。


絵本や童話は、それをさらにシンプルにしたものですから、
この凝り固まった頭をほぐすには、とてもよい作業だと感じています。
最初は絵本でもやりすぎてしまったりして、「ここはカットだな」という場面が非常に多いですけどね。(それが遅れている最大の理由です)


知識があるというのは良いことに違いありませんが、
アウトプットする時に注意しないといけないことがある、
ということを今学んでいます。
これを考えると、シルバーバーチの霊団はよくあんな簡潔にまとめたものだと
そのあまりの凄さに驚愕するしかありません。


常々上位の霊団の代弁者にすぎないとは言っていますが、
霊界での出来事を考えれば、もう想像を絶するほどの情報量のはず。
それをあそこまで簡潔にできるとは・・・
当たり前といえば当たり前ですが、
霊が持つ能力と肉体につながれた生身の人間の差を痛感するばかりです。


とまあ、先生もいつもメテオノヴァとか言っているだけではないのですよ!
考えに没頭して引きこもっていると、いざという時にアウトプットできない事態に陥るものです。
今必要なものを的確に選択できる力をもっと身につけないといけませんね。
これもまた日々勉強あるのみなのです。

既成宗教家の断罪

昨日の記事を踏まえての少し厳しいお話。


宗教家に対しては厳しく接するべきだと考えています。

なぜならば、現状の社会にある悪癖の多くを生み出したのは彼らの責任だからです。
人々から神を遠ざけ、宗教をやっているやつなんて頭が狂っている、という印象を大衆に与えたのは、何よりも彼らの責任です。
まあ、昨日の記事を読んだ人なら誰でもそう思うでしょう。


シルバーバーチなどは英国で始まったのでキリスト教がメインですが、
やはり日本では和製仏教とも呼ぶべきものが最大の敵だと再認識しました。

葬式や供養など、大きな誤解を招いたうえに、今でも維持し続けています。
今の現状があるのは彼らの無知が原因です。
それが仕事であるにもかかわらず完全に勉強不足なのです。
これが民間企業ならば、即座にリストラの対象になるレベルです。


以前書いた記事にも、神がすでに既成宗教を見放していることを書きました。
その結果として、先生のような人種が尻拭いをすることになったことも。




結果的に個人の自由が確立されつつあるので、これはこれでよかったのでしょうが、
その責任の重さは相当なものです。


なので、先生も宗教家あるいは、この間のように街頭で宗教を広めようとしている人間には厳しく接します。
正直、あれでも相当手加減をしたのです。
本当ならばもっとボコボコにしてあげたいという気持ちすらありますが、
それはそれで問題ですし、先生大人なので控えました。


※まあ、本当に真面目にやっている人からすれば、同じ既成宗教であっても「あんなやつらは偽者だ」と言いたいでしょう。が、どちらにしても、もはや落ちぶれたものなのは同じことです。



みなさんが宗教なんて狂っている、と思うのは当然です。
先生も昔はそう思っていました。
彼らが戦争を生み出し、人類の進化を阻害している俗物だと、はっきり言っていたくらいです。


ただし、もしそう思うのならば、


堂々と論破できる知識がないといけません。

「ここが間違っているので、あなた方の理論は破綻している」
「最初のここの部分の前提がこう間違っている」
と具体的に指摘できないといけません。
それはまさに法を学んで、法律違反を指摘するようにです。
強い心を胸に秘めて戦わないといけません。


ただ、彼らに共通しているのが「物的なことに執着している」ことなので、そもそも価値観が違う以上、話が通じないのは当然かもしれません。
彼らは幸せがどうこうを繰り返していましたが、
死体がどうこう言っている時点で、物的なことしか頭にないのです。
その段階で自らの心の存在をすべて否定してしまっています。


ただ、そういった残念な人々にも効用があります。
彼らを見て愚かに思ったみなさんは、
「地獄って何だろう?」「そういえば、人は死んだらどうなるのだろう?」
と疑問を抱くかもしれません。
それがきっかけになって知識への欲求が芽生えるでしょう。


つまりは反面教師です。
あまりに酷いものを見てびっくりして、本当のことが知りたくなる。
神が決めた以上、彼らはいずれ滅びる定めにありますが、
悪を見て善を知るように、そういった役割としては少しは存在価値があるのでしょう。


すでにドグマに汚染された人々は、ほぼ絶望的です。
それよりはまだ既存宗教に嫌気が差して「死んだら終わりだ」と考えている人のほうが見込みがあります。
なぜならば、そういった人々は本当は信じたいのです。
すがるものや、頼るものを得たいと思っているのです。
ただ確信がなく、知識がないので、今のところ「ない」と無難に対応しているにすぎません。



余談ですが、先生が対話して結局完全に駄目なのは女性ばかりでした。
女性というのは感受性に優れている反面、論理的な思考が苦手なので、
一度信じ込んでしまうと論理的な話をいっさい受け付けなくなります。
そうなるともうお手上げです。


論理を説いておきながら、論理の破綻を指摘しても、それを受け入れられないのです。
それならば論理を説かねばよいとは思うのですが・・・
そのあたりは少し不憫にも思います。

さらに依存心が強い人が多いので、これをなくすともう生きていけない、
と思うようになります。その心情を悪い連中に利用されてしまうのです。


ですから、女性が宗教に関わる際は、特に気をつけたほうがよいと個人的には思います。


ただし、一度正しい道に入れば、女性ほど頼りになる存在はいないでしょう。
私たちはまだ男女として分かれていますが、それは役割があるからです。
お互いの長所と短所を埋めあうことで、神をよりよく体現することができます。
霊的成長を遂げていけば、いずれは性という概念がなくなる統一体になっていくので
今はこうした違いを楽しむのも楽しいのかもしれませんね。